スイッチ.5
5 決着
アパートカルラン。いかにも古いアパート。そこに西郷町子は住んでいた。
カタンコトンと一人がやっと通る幅の階段を上る。204の番号を探す。ありえない事だが、いっそ見つからないでほしいくらいだった。
「ここだ…」
気のせいだろうが、なんだか重苦しいオーラを感じた。
「さっさとアルバムを貰って帰りましょうよ…」
「それは時と場合だよ、みっくん。」
インターホンを鳴らす。
「はい。」
今までと違い涼しい顔をして出てきた。嘘だろう。そう思うしかない。
兄貴は外で待つことにした。ちょっと気になることがあるらしい。
「狭いですが、その辺の椅子に座ってくださいな。アルバムを持ってきますから、適当に待っててください。」
素っ気ない。あまりにも冷たい。歳のせいで入ったほうれい線。下がった口元から多分嫌な奴だとわかった。
「やっぱりさっさと帰りましょうよ…」
コソコソと話す。
「私も早く帰ってほしいのですが?」
聞こえていたのか嫌味を言われた。やっぱり嫌いだ。
「それじゃあ早く渡してください。すぐに帰りますから。」
「こら、みっくん。」
「やっぱり嫌ですよこんなところ。」
部屋を見渡す。やけに散らかっている。たたんでいない洗濯物。散乱したままの雑誌。
部屋の奥に写真が貼ってあったが、ある男と写った写真ばかり、西郷の写真は一枚も無い。
「はい、これです。では早く出ていってください。」
ビニール袋に適当に入れられたアルバム。扱いがあまりにもぞんざいだ。
こちらから出ていってやった。
「おかえり、早かったな。」
「嫌なおばさんだったよ。」
「そうか。早く帰ろう。」
西沢さんの家に向かう。
いっその事だ。あえてこんなことを西沢さんに聞いてみた。
「そう言えば、警察官の制服の西っていう字、やけに古ぼけてましたよね。」
西沢さんは首を傾げていたが、兄貴は察したのだろう。目を伏せた。
とうとう西沢さんの家に帰ってきた。3人で粗末なカーペットにアルバムを囲んで座った。
腹が痛くなってきた。
「じゃあ、早速見てみようか。」
神無崎高校。近くの県立高校。3年5組5番。確かに、まるで死んだかのような目をした明らかに雰囲気の違う男子生徒がいた。これが西郷茂之…。
「うわあああああああああ!!!!?」
西沢さんが驚いてアルバムを放り出してすごい勢いで後ずさった。
「…。」
何も言えない。
「嘘だ…なあ…嘘だろう?」
「…。」
兄貴ももう黙るしかなかった。
「なんとか言ってくれよ!!なあ!!!」
本当は俺たちは知っていたのだ。
「西郷茂之は…僕だったのか…?」
記憶喪失の警察官の西沢英一なんて、この世に存在していなかった。今まで仲良くしていた幼い頃からよく知るこの男。彼こそまさに西郷茂之なのだ。
そしてもうあの日から西郷茂之も存在していない。記憶が消えたのだ。西郷茂之は死んで、西沢英一としてこの10年間生きていた。
無言のまま、もう一度アルバムを開く。この顔だ。ここ最近毎日見ているよく知った顔。
気が動転した西郷は早く警察を呼べ、早く殺せ、僕がテロ犯だと叫び続ける。
しかし、
「…どうして、警察は記憶の無いあなたを世間に吊るし上げなかったと思います?」
「…なんでだよ…」
「西郷茂之が警察だったからです。警察がテロを起こしたなんて、世に知れ渡ったらどうなると思いますか。信用はガタ落ち、不信感が日本を覆うのです。」
「つまり…」
「あなたは、西郷茂之はお偉いさんのメンツを守るために、存在を抹消されていたんです。」
「どうして二人は全部知っていて黙ってたんだよ!!」
すさまじい罪悪感が這い上がってくる。でも言うことは一つだった。
「俺たちはあなたが大好きだったからです。西郷茂之としてのあなたも、西沢英一としてのあなたも。」
この言葉が、あの西郷茂之本人に届かないのが辛い。
「警察に行く前に、インターネットであなたがテロ犯、西郷茂之だと公言しましょう。警察に嘘をつかせるわけにはいきません。西郷茂之の本当の目的のためにも…。」
「本当の目的…?」
「俺は、『虐めの根絶』だと思っています。頑丈な壁はとんでもない方法で壊すしかないのですから…。」
翌日、情報を公開してから世間は大騒ぎ。嘘をつく間もなく、西郷は牢に入った。本人の意思もくんで、明日には死刑を決行するらしい。皮肉にも方法は首吊りだが。
昨日冷静なフリをして堰き止めていた涙がボロボロと溢れ始めた。
あわよくば、このまま一生思い出さないで、第二の人生を幸せに生きて欲しかった。でも、全ての自由が効かなかった西郷の願いの一つ叶えてやりたかった。だから真実を知ろうと動き出したらなるべく協力しようとは思っていた。
兄貴が優しく抱きしめてくれた。いつもなら振りほどくのだが、今日だけは本気で甘えることにした。
明日死ぬ。首を吊ってこの世から消される。牢に入ってからずっと考えているうちに少しずつ思い出してきた。理不尽なまでに不幸な人生。確かにたくさんの虐めを受けた。誰からも愛されなかった。嬉しいなぁ、みっくんもお兄さんも僕のことを悔やんでくれて。でも、僕はたくさんの人をほんの数分で殺した。死ぬだけで償えるはずがない。
僕ができることは死ぬこと。それ以上も以下もない。
地球も時計もくるくる回る。気がつけばもうその朝が来ていた。看守がやって来た。何か言われる前に立ち上がる。
向かったのは静かな部屋。縄の輪が吊り下がる。
「最後に言い残すことはあるか」
少し考えた言葉が上手くまとまらない。死の間際の拙い言葉だが、どうにか声に出した。
「これからの世代が、虐めも虐待も無い、平和で幸せな世界を作って行くことを願っています」