スイッチ.1
『2005年の悲惨な爆破テロを、覚えているだろうか?』
なんとなくつけたテレビが喋りだす。午後7時からのドキュメンタリー。今年は2015年である。
『10年前、多数の死傷者を出したこの事件。未だに犯人は捕まっていない。』
低い声でさもシリアスに読み上げる女性ナレーター。いつもならつまらないとチャンネルを変えるドキュメント番組。堆積する嘘の塊が嘲笑う。しかし、今回は違った。
西沢英一は息を呑む。間違いなく、これは事実であるのだと、確信して手が震えていた。
西沢英一36歳、神無崎市のお巡りさん。
1 開始前夜
桜咲く季節になり始めた頃、神無崎東中では私立高校合格か否かを知らせる封筒が配られた。私立専願だった少年、時渡未来は胸をなでおろし、ほっと息を吐いた。自信はゼロだった。合格と書かれたとしても、おそらくギリギリだったに違いない。かつて兄がトップの成績で入学し、卒業した案外ふつうの私立校。中学時代の定期模試で何度も全国1位だった兄が行くにはあまりにも勿体ない、本当にふつうの私立校。ある程度学力を上げておかなくては、きっと馬鹿にされるはず。彼は今日から一番慕っている知り合いの元を頼ることにした。
「僕に勉強を教えろって?」
「お願いしますよ」
「まったく、みっくんの願いなら仕方ないな」
呆れながらも笑顔で答えてくれた西沢という男。彼と知り合ったのはまだ幼い頃だった。
「それで、まずは何を教えようか」
「んー、英語でお願いします」
数学も同じくらい苦手だが、英語の方が救いがない。数学はものすごく癪だが、兄に聞くのが賢明なのだ。妹も自分より頭が良いし、仲がいいが、兄としてはやはり少しカッコつけたいのだ。
小さな平和な街の交番。誰もここを頼ることは無い。大きな事件と言えば…
「そうだ、みっくん。10年前の事件、覚えてるかい?」
「あの爆破テロでしょう?覚えてますよ。あなたが助けてくれたんですから。」
「そりゃあ覚えてるか。すごかったもんな。」
「どうして急にまたその話を?」
「いやぁ、冬に特番があったろ?10年経ったけど犯人は未だに不明だって。」
「あー、あれですか。」
2005年、クリスマス前に賑わう昼間の街を襲った爆破テロ。ビルにデパート、小さな商店、人混みをある地点を中心に甚大な被害を与えた。俺は偶然その中心付近にいて、ちょうどそこにいたこの男に助けられたのだ。
「僕はみっくんを庇って、後頭部を強打。それで記憶を失ってしまった…ってことでいいんだよな?」
「はい。その通りだと。」
「あの特番を観てからさ、気になってしかたなくなってすこーしだけ調べ物してみたんだ。まずは一番近い場所。この交番にいる人間の名簿を調べたんだよ。」
妙な予感がしたから話をそらしてやることにした。
「へー、また後にしましょうか。英単語覚えるの手伝ってください。」
「つれないなー。わかったからあとで話に付き合うくらいはしてくれよ?」
「はいはい。」
「それじゃー、えー、switchは?」
「そのまま『スイッチ』、そして『切りかえる』。」
「おー、正解正解。いいじゃんか。」
「それくらいならまだ簡単ですって。この辺、中級位からお願いします。」
「これ高校生レベルのじゃないか。偉いな、みっくん。」
暖かい掌でポンポンと頭を叩いてきた。記憶が無い分この人は俺でも褒めてくれるから好きなんだ。でも、こうしていられるのもあとどれくらいだろうか。
一時間後、ある程度のところでまた明日にされた。どうしても話したいというのかこの人は。
「それで、名簿を見たんですっけ?」
「そうそう。なんとね、僕がこの名簿に載る寸前に、つまりちょうど10年前に名前が消えてる男がいるんだ。」
「その名前は?」
「西郷茂之。関係ないにせよ、なんだかやたらと気になってさ。」
「調査してみると?」
「うん。ねぇみっくん、よかったら手伝ってくれないか?」
「えー、一応学生ですよ。春休みまであまり参加できませんよ?」
「春休みってあと少しじゃないか!頼むよ、1人だとやっぱり怖くって…。」
困り顔で笑って懇願してくる。命の恩人だし、断るのはやっぱりできないか。
「しかたないですね、いいでしょう。」
いたずらっぽく上から目線で言ってやった。36になったおっさんのくせに子供みたいに笑いやがって。なるべく、この人は悲しませたくはない。
「それでまずはどうするんです?」
「コイツがどんな人間だったのか、関係者に聞いてみよう。」
「直接は行かないんですか。」
「いやー、こういうのってもし犯人だった時何をされるかわからないだろ?」
「それもそうですね。」
「何かわかるといいけどなぁ。」
「きっとわかりますよ。」
「珍しい、みっくんが前向きなこと言うなんて。」
かくして西郷茂之についての調査が始まった。